・次々の説明~今回は鈴木慶一さんの連載対談「2001Bock'n' Roll Club」の2年目(1982年)分について書いていきたいと考えています。
対談相手がムーンライダーズ周辺の方々が多いのは勿論ですが、この年には山下久美子さんや桑田佳祐さんに高樹澪さんなども登場していますね。
1981年はムーンライダーズがレコード会社からの契約から解き放たれた時期だったということなんですが、1982年にはその逆にバンドとしての活動がメインだったのでした。
この辺のことがなんとなくしかわかっていなかったのが、時間が経ったことによってようやくわかったことがあります。
現時点で雑誌が全て揃っているわけではないので、記憶に頼ったり、他の雑誌などで補完することになりました。
前置きが長くなってきましたから、そろそろ始めたいと思います。
 

 1982年1月号~高橋ユキヒロ。高橋はこの連載に単独で唯一2回登場している。この回ではビートニクの定義に始まり、ビートニクス結成までの経緯、つまりムーンライダーズの契約の空白期間等々についての説明がメインになっている。
原盤についての考えや、レーベル運営など、その後の鈴木と高橋の活動に関することがおぼろげではあるが、方向性がこの時点で見えているのではないか。
前回の対談(1981年6月号)と同様にアンチ・クリスタル族ということも明らかにしているのだが、この辺で意気投合したビートニクスが現在でも(頻繁ではないものの)活動を続けているのが興味深い。

 1982年2月号~細野晴臣。対談当日がYMO『テクノデリック』の発売日ということもあって、アルバムについての会話からスタート。
1982年の展望でレーベルを設立(YENレーベル)することと、ソロ・アルバム(『フィルハーモニー』)を作ることを宣言している。
レーベルを作る意義などについて、
細野「できる人がやらなければ。だからとりあえずボクがやろうと思って」
鈴木「やって下さい」
細野「そのうち跡を継いで下さい。引退するから」
というやりとりがあります。
そして、はっぴいえんど再編についての話題も。
「'82年はどうしようかと。石庭みたいに、(心の)庭をきれいにホウキで掃きたい心境٠٠٠٠٠」(1983年1月号の総集編から発言を引用しました)

 1982年3月号~桑原茂一(スネークマン・ショー)。この時期、『スネークマン・ショー海賊版』がリリースされることもあっての登場。スネークマン・ショーにムーンライダーズ名義では参加していないが、変名で参加しているのであった。
YMO『増殖』にスネークマン・ショーが参加してから(とは限らないが)、彼らは音楽のみならず、ユーモアや選曲に意識を向ける存在であったことをここで強調しておく。
この時点で桑原は(中西俊夫や佐藤チカが参加の)メロンを売り出すことへの熱意が伝わるのも興味深い。
「もしかしたら東京が'60年代のロンドンみたいな所になるんじゃないかと٠٠٠٠٠٠。それができるとしたらこの'80年代しかないと思う」(総集編から)

 1982年4月号~松山猛(エッセイスト)。実は連載1回目の加藤和彦の回で、名前が出ている人物。ムーンライダーズの熱心なファンには「鬼火」の歌詞の原案者として知られる。
この回ではその「鬼火」に関するエピソードにも触れられている。
雑誌作りなどの強力なポリシーなど、もの作りをする人間は読んだ方がいいかもしれない内容へ。
なぜか写真が踊っている状態を撮影した感じなのが印象に残っている。
「雑誌を読んでるんじゃなくて、自分の人生を読まれてるんだ。そういう生活いいかげんに(みんな)止めないと、えらい目にあいますよ」(総集編から)

 1982年5月号~YENレーベルの皆さん(細野晴臣、高橋ユキヒロ、ゲルニカ、立花ハジメ)。YENレーベル第1弾、細野晴臣『フィルハーモニー』や新人のゲルニカを紹介するために登場。
この時点でリリースする予定に入っていたのがフィルムス(この時期は赤城忠治、中原信雄、後藤信夫、鈴木智文、小松世周、鈴木さえ子という顔ぶれだった)やサロン・ミュージックだったのが興味深い。
もし、サロン・ミュージックがこの時デビューしていたら、フリッパーズ・ギターや綿内克幸にザ・コレクターズは現在のような活動をしていたか、もしかしたら違ったものになっていたかもしれません。
「長年の秘めたる夢だったビッグ・バンド。それをYENのメンバーでやりたいと思ってるんです」(細野晴臣、総集編から)
 これは後に『YEN卒業アルバム』で形は違いますが、実現したといえるのかもしれません。

 1982年6月号~高橋章子(「ビックリハウス」編集長)~ムーンライダーズ、ビートニクス、鈴木慶一と雑誌「ビックリハウス」とは縁深くて、後の『ビックリ水族館』、ビートニクス「偉人の血」、「ビックリハウス音頭」などに関係している。
花編(高橋章子の呼び名、花の編集長)と鈴木とはカルデサック人脈で知り合った話など、当時ならではのエピソードが語られている。
「私、バイトだったんだよ。編集なんかやろうと思わなくて1ヵ月で辞めようと思ってた。それが1ヵ月、1年٠٠٠٠٠٠」(総集編から)

 1982年7月号~山下久美子。細野晴臣作曲のCMソング「赤道小町ドキッ」でブレイクして、大村憲司プロデュースのアルバム『抱きしめてオンリィ・ユー』をリリースしての登場。
ブレイクして間もない時期であるが、インタビューなど自信に満ちた印象がある。
「もどることが嫌いだし、ちゃんと前に進みたい。そしてカッコよくいたいし、それもシンプルで」(総集編から)

 1982年8月号~桑田佳祐(サザンオールスターズ)。この対談はアルバム『NUDE MAN』の録音中に行われた。雑誌発売日がアルバムの発売日近くになるというよくある話。
サザンオールスターズとムーンライダーズの接点から話が始まる。ちゃんとした形では小林克也でのレコードで共演したのが初めて。1980年代初めのライヴシーンなど興味深い内容に。
ビートルズや東京オリンピック話など、これまた面白くなったところで終了。
「前川清の歌い歌いまわしはR&Bなんだよね。あんな歌い方作っちゃった人いないと思う」(総集編から)

 1982年9月号~ムーンライダーズ。この連載には珍しく誌面の早いところに登場(16ページから)。アルバム『青空百景』について語りまくる鈴木慶一。他のメンバーの発言は少ない。
が、メンバー全員へのアンケートなど内容はかなり充実している。
「20代の人は、時代が欠伸をしている時に青春を過ごしちゃった」(鈴木慶一、総集編から)

 1982年10月号~ピエール・バルー。ピエール・バルーが来日した時期、バッキングをムーンライダーズがつとめた関係。
翌年、ムーンライダーズがパリを訪れた際にも交流があった。アルバム『ル・ポレン』にもムーンライダーズは参加しているが、当初は宇崎竜童も参加予定だった(「彼がボクとは違うものを求めていることがはっきりわかったので中止になった」この号のピエール・バルーの発言より)。
サラヴァ・レーベルについてのエピソードも面白いが、ピエール・バルーのプロフィールがかなり詳細で素晴らしい。
「成功すると、アーチストは罪の意識を持ち始めて、自分のかんじんな部分が伝わっているのか、コンプレックスに悩まされるものです」(総集編から)

 1982年11月号~りりィ。吉田建プロデュースのアルバム『モダン・ロマンス』をリリースしての登場。同アルバムにはムーンライダーズのメンバーも参加しているのだった。
バイバイセッションバンド時代の有名なエピソード、「ホテルの窓からテレビを投げたらその下に車が止まっていて、ものすごい額を請求された」を話している(当時のメンバーは吉田建、伊藤銀次などが在籍)。
「Aマイナーのりりィのイメージを放り出したら、いきなりCとかDとかのメジャーになっちゃったみたい」(総集編から)

 1982年12月号~高樹澪。実質的最終回。石川セリのカヴァー「ダンスが上手く踊れない」でブレイクしての登場。すみません。どんな内容だったか、この回は全く思い出せません。
デビューの映画「モーニング・ムーンは粗雑に」も観ていますが。。入手次第、内容確認して更新します。
「富士山のほう見てると、必ずヒュヒュ、ヒュヒュとUFOが飛んでいるんです」(総集編から)

 1983年1月号~総集編。第1回目から登場したアーチスト全ての写真と、コメントを引用している。

・今回も敬称を略させていただきました。

追記~手元にない号もかなりある上に、全く記憶にない号もありました。
手元に残した号は個人的趣味と今後に繋がるようなものを優先的に残したつもりですが、無理をしてでも全号残すべきだったと後悔しています。
以前、重要と思われるものはコピーを取って、ある程度は渡した記憶がありますが、連絡を取れなくなってしまったので、また地道に探していくつもりです。

 All written by Hiroshi Sugar Sugai 
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