・様々な説明~雑誌「バラエティ」といえば角川映画だったり、後に薬師丸ひろ子さんや原田知世さんがブレイクするきっかけを作ったものと連想されるか、そんな雑誌あったの知らないと言われるか、80年代前半のイメージとしてはそんなところだと勝手に決めつけてしまいます。
そんな雑誌に連載されていたのが、鈴木慶一さんをホストにした「2001 Bock'n' Roll Club」と「K1の“胸キュン”シリーズ」です。
当時のムーンライダーズファンとしては1980年代の日本のロック、ポップスの流れの中でのムーンライダーズの位置がよくわかるということで、毎月楽しみにしていましたよ(私はこの連載目当てで定期購読していました)。
以前、リストを作った時よりも雑誌を取り出しやすくなったり、連載当時より多少は知識も増えたので、ひとつこの機会にまとめてみたいと思いました。
気づいたことやご指摘があればその都度修正していきますので、皆さまお付き合いよろしくお願いいたします。
・2001 Bock'n' Roll Club 1981年1月号~1983年1月号(全25回)まで
連載トーク・セッション「2001ぼっくんロール・クラブ」
ロック界のヌーベル・バーグ、ムーンライダーズのリーダー鈴木慶一が、ゲストとマルチっくに語り合う超感覚クラブ
というコピーが連載にあたって、作られたロゴの下に毎月書いてあったのでした。
・1981年1月号~加藤和彦。実は意外にも知り合ってから、それほど長い時間が経っていなかった時期での対談。
加藤がプロデュースした大貫妙子、岡林信康、そして自らテレビ出演する際、演奏にムーンライダーズを起用することが多かった。
「他のジャンルの人のほうがミュージシャンよりも絶対にススんでるよ。ミュージシャンが一番感覚の面でも遅れてる」(最終回の総集編で引用されたコメント)
これは後のミュージックマガジン2004年6月号での加藤のインタビュー(ちなみにインタビュアーは小川真一)と比較すると興味深い。
・1981年2月号~PANTA。PANTA&HALのプロデュース(アルバム『マラッカ』『1980X』)をした話に始まり、PANTAお得意のオートバイ、車の話題(一部のファンにはお馴染みのアルファロメオ炎上事件)などで進む。
その後に触れる作詞する上でのスタンスが興味深い。
PANTAも鈴木とは顔見知りではあったが、本格的な交流がスタートしたのがこの時期である。近年開催されたPANTAがPANTA&HAL時代の曲を演奏するライヴに鈴木は出演している。
「オレは大衆をバカにしたくないからこそ、こうやっているんだ」(総集編で引用されたコメント)
・1981年3月号~糸井重里。糸井と鈴木と一緒に組んでやった仕事、最初はやはり斉藤哲夫の例の曲(「いまのキミはピカピカについて」)だったとか。初期にやったものとして対談の中で出てきたのが、フィーバーとラジというのが素晴らしい。この時期、杏里の『悲しみの孔雀』を録音中だった模様。
「自分が作る側にいるっていう意識と、受ける側にいるっていう意識がいつも重なってるの。それがボクのチェック・リストかも」(総集編から)
・1981年4月号~矢野顕子。今回は対談というよりも矢野への鈴木によるインタビューという色合いが濃い。YMOのワールド・ツアーに参加以降の環境の変化や、家庭人としての話題などかなり面白い内容に。
「(電気釜って)お米入れてスイッチさえ入れておけば炊けると思ってた。私が矢野顕子の母親だったら、こんな風には育てないね。そんな勇気ないわね」(総集編から)
・1981年5月号~大滝詠一。アルバム『A LONG VACATIION』のリリース時期のインタビュー。大滝がシネマのリハーサルを見学したり、鈴木を古くから知るこその濃い内容。新人&新譜至上主義への疑問など、個人的にはこの回がベストの内容。
ちなみにこの回のみ現在大滝の単行本で読むことが可能である。
「古い新しいをこれだけギャーギャー言う国民もいない。オレのやって来たことは結果的にそれを助長しただけだったな。これまでをふり返って反省したことのひとつだね」(総集編から)
・1981年6月号~高橋ユキヒロ。高橋と鈴木が意気投合して、ビートニクスの結成に向かった時期の対談。
例のアンチ・クリスタル族話がとにかく強烈。高橋ファンにとっても、鈴木もしくはムーンライダーズにとっても重要な内容。高橋はビートニクスのアルバムリリース後にも、もう一度登場。
「日本人の置かれてる立場とか、精神文化や考え方は重要になってくる気がする。それは(これからの)一種の手がかりになりうると」(総集編から)
・1981年7月号~矢吹申彦(イラストレーター)。矢吹はこの時期リリースされたムーンライダーズ初のベスト盤『東京一は日本一』のジャケットのイラストを担当。このベスト盤についての話題や、他にジャケットを担当したアーティスト(葡萄畑やN.S.Pなど)についての矢吹のコメントが面白い。
「(CMって)面白いよね。パッとやったのに意外といいものができたり。15分で作ったって、いいものはいいんだよ」(総集編から)
・1981年8月号~シネマ(松尾清憲&鈴木さえ子)。シネマのファースト・アルバム『MOTION PICTURE』など、この時期の彼らの作品を鈴木(慶一)がプロデュースしていた関係で登場した模様。
メンバーの音楽的ルーツや松尾と所謂めんたいロック勢とのつながりなど、かなり興味深い内容。
現シネマ&ジャック達の一色進がエジソン・ライトハウスの熱心な聴き手だったことはない、とか(以前、本人に確認したところ「オレはブッダ・カーマストラ野郎だった」とのこと)。
「(夢は)プレイヤー・マガジン」のドラム部門に女の子で初めて出ることかな。昔からの夢だった」(鈴木さえ子、総集編から)
・1981年9月号~巻上公一(ヒカシュー)。アルバム『うわさの人類』リリース時期。対談直前にNHK教育「若い広場」が放送されたため、その番組の話題に。それゆえにヒカシューの成り立ち、湯河原の話などこれまた興味深い内容に。
「出身は神奈川県の湯河原。つげ義春の漫画なんかはみんなそこが舞台。描いてある絵がうちの裏の辺だもの」(総集編から)。
・1981年10月号~藤真利子。藤のアルバム『狂躁曲』(レコーディング中と思われる写真も掲載されている)を鈴木がプロデュース。藤がかなりの音楽好きでパイドパイパー・ハウスに通っていた話や、鈴木が藤におすすめしたアルバムが『Young Person's Guide To Compact』だったという事実(!)。
ちなみに藤は高橋(ユキヒロ)とかねてから親交があったことにも触れられている。
「昔からデビッド・ボウイのファンで、高校生の頃初めて来日した時、何と横浜の桟橋まで迎えに行った」(総集編から)
・1981年11月号~杏里。アルバム『悲しみの孔雀』を鈴木がプロデュース。杏里のこのアルバムでの方向転換の話、すなわち鈴木のプロデュース論みたいなものが伺えて、その後、鈴木がプロデューサーとして活躍することを考えると非常に興味深い内容。
「(冬になると)死んじゃう。私病気になっちゃうんですよ。自律神経失調症に」(総集編から。引用された発言は当時の状況によるもので、現在の状況とは違うということを断っておきます)
1982年12月号~宮崎美子。宮崎のデビューのきっかけがミノルタカメラのCM(「いまのキミはピカピカに光って」)で、鈴木はその作曲と編曲を担当。
この時期、宮崎は芸能活動を始め、写真集「元気です!」をリリースしたり、ドラマ「元気です!」(ちなみに主題歌は吉田拓郎でドラマと同じタイトル「元気です!」)の主演やレコード・デビューをしている。
現在でもテレビ出演や写真集の発売を年末に控えていたり、と活躍中。
「何かズレてるというか、生徒会副会長なんかやってて、あまり面白くないタイプの女の子だったんです。その髪型は校則違反でしょうとか٠٠٠٠٠٠٠」(総集編から)
・今回、敬称を略させていただきました。
追記~2001Bock'n' Roll Clubだけでも全部一気にアップする予定でしたが、あまりに文字量が多くなってしまったので、1981年分だけ、まず先にアップしました。
1982年分と、K1の“胸キュン”シリーズと別々に更新して、1982年分に関しては連休中か連休明けにアップする予定です。
もうしばらくお待ちください。
All written by Hiroshi Sugar Sugai
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